我聞15

 

魂の転生の証について


1997-6-22  総合法座 (真理の集い)

瀬川先生とご縁があって14年になります。いろいろと不思議なことがたくさんありましたが、その中で一番印象深いことをお話します。
私は三田市で建築の設計事務所をやっております。そんな関係で先生には仕事がらみで大変お世話になっています。

三田屋本店三田に三田屋本店という能舞台のあるステーキハウスがあります。
これができる時にいろいろと不思議な現象がありました。時々この話を私のお客さんにするのですが、たくさんの出来事があったので全部いいますと3時間以上かかります。今日は印象的なところだけをお話します。

食堂のレストランの向こう側に小高い山があります。その前に能舞台があるのです。この能舞台は昭和63年の春に開かれたのですが、以来毎年7~8回の能が演じられているという場所です。その建築の仕事が私のところにきました。
昭和61年7月から建築の工事にかかるということで図面を書いていた。ところが6月になってから社長の廣岡償冶(ひろおかしょうじ)という男ですが、食道ガンだというのです。かなり進行しているので手術して切るしかないということで手術をした。実際、助かるかどうかということはわからなかった。

まず私は、この仕事はだめだろう、と考えていたのです。いうてみれば経営者の本人が死ぬかどうかという状態でしたので、ダメだと思っていたのですが、建築直前になってから大変なことが起きたということで、何か霊的な裏付けがあるのではないか?と気になって瀬川先生にご相談にいきました。

このときは社長の奥さんと私と二人で伺った。いろいろの話を伺いながら、「何か裏に霊的なことがありませんか?」と瀬川先生にお願いした。その時に奥さんは先に電車でかえり、私は残ったんです。
先生は「あの奥さんもガンになるで」とおっしゃった。そのとき私はそれがどういう意味かわからなかった。今ガンになっているのは主人やから、「奥さんは今は何もないですよ」といったんです。「いやぁ、あの人も同じ魂の傾向をもってるから近々同じことになる」とその時に言われたんです。

「じゃ、今夜、禅定して天へいって聞いてくるから、また明日電話をしておいで」ということで私も帰りました。
あくる日に先生に電話をした。「これは大変やで、廣岡償治という人間は、今は三田屋の社長をしているけれども、前の転生で織田信長である」とおっしゃた。織田信長とナポレオンと坂本龍馬、この三人は実は同じ魂の生命体である。ともいわれた。
実は私もびっくりしたんです。それがどういう関係で、今度のことにからんできているのか?という事をそれから調べることになったんです。

結局、先生のお話では廣岡償治社長と一番深い関係にあったのが織田信長の転生であるということであった。それと三田の土地がどんな関係にあるのか、ということも歴史的に調べてみたんです。

天正6年といいますと1578年ですから、約400年前で明智光秀と秀吉が三木城を攻めていた。三木城に別所長治というのがおりまして、須磨の西山さんにもご関係があると思うのですけれども、そこを攻めているときに伊丹の城に荒木村重という武将がおりました。
当時、村重は、伊丹、摂津、三田あたりを全部押さえていた。

三田の城には荒木村重の弟で荒木しげ忠がいた。現在の三田の金心寺のなかに砦という形にしてこもっておった。その状況のときに荒木村重が信長の怒りをかった。なぜ怒りをかったのか?信長が東本願寺を焼き打つように村重に命じたが、村重は東本願寺の信徒総代だったので、焼き打つことができなかった。それを謀反ととらえた。三木城を攻めたり、毛利を攻めたりしている真っ最中でしたから、信長にすれば非常に腹を立てた。それで伊丹の城は落とされてしまった。

そのとき村重は単身城を抜けだして、後には堺に行って茶人となって生き延びたのですが、城に残っていたたくさんの家来、妻、子供たちは皆捕らえられ殺されたんです。
そのなかの一部の人たちが、三田にいた荒木しげ忠のところに逃げてかくまわれた。その中に荒木村重の娘さんか側室かはわからないのですが、つる姫という方がいたようです。ここへ光秀と秀吉の軍勢が攻めてきて落ちてしまったわけです。そいうことは事実としてあるわけです。
そいう関係で滅ぼされたのですが、丁度、金心寺の砦があった地つづきに、今の三田屋本店が建っているのです。皮肉にも。
その本店の裏山に自然の丘があるんです。その丘のてっぺんまでつる姫が逃げてきて殺されたか、自害したかということなんです。

また、5~6年前に瀬川先生と一緒に、その三田屋本店に能を見にいったんです。「まだ、つる姫さんはおられますか?」と尋ねたら、「おる、おる」とおっしゃいました。丘の上に400年経っても、その霊がいるのです。
つる姫がどういうことで、三田屋の社長にかかってきたのか、ということを先生のお宅に
行って聞いてみたんです。

先生は目をとじて禅定瞑想されていました。
「姿が見えて来た。長い髪の毛を背中でくくっている。錦の打ちかけを着た大名の奥方のような姿をした人が扇をもって立った姿で出てくる」とおっしゃった。
「何という名前ですか?」と聞いたら、「ちょっと待ってや」と言われて、「フン、フン、さえきうきょうのすけじぶざゆう」というのです。「先生、さっき奥方っておっしゃったでしょう?これ男の名前ですよね」「わしも、ようわからん」
調べてみたら「じぶざゆう」 というのは役職名なんです。
「さえきうきょうのすけ」が名前です。その人がどうやら能を好きだった能役者か、能を演じてるか。あるいはつる姫の魂を慰めるために、そいう能の姿で出てきているのではなかろうか?ということが段々とわかってきた。

そいうことの後、しばらくして社長が食道ガンで入院したんです。ところが入院中に川西市の方から電話があった。その当時、テレビで三田屋の社長が能舞台をつくると何回も放映されていました。それを見た方が、能の絵を描いているので、すばらしい話だから三田屋の店ができたら、そこへ寄贈したい。と申し出があった。4枚ほどあるので、どれか1枚差し上げたい。ということだった。
社長は入院しているので「森脇さん、見に行ってくれないか?」ということで、三田屋の専務と二人でいきました。

絵を描いた本人さんも病気で入院中で、娘さんがいらして案内された。
ふすま1枚ほどの大きさのが4枚あった。
それぞれ能の場面の絵だった。
そのうちの1枚が、実は先生がおっしゃったように、女の人が後ろで髪をくくって、錦の打ちかけを着て、扇をもってるんですわ。 その時の気持ち悪いというか、こわいというか、全身に鳥肌がたつというか、非常にびっくりして、とにかく早く帰ろう、といって帰って来ました。専務がどうします?というので、「そんなん貰っていたら、えらい目にあうで」というて丁重にお断りした。
そんな形で、そういう姿がでてくると私も思わなかった。

しばらくして三田屋の奥さんが電話をしてきて半狂乱でした。
「私もガンや」 というのです。
この前に先生のところへいったときは奥さんが先に帰られた。その後に先生が「奥さんもガンになる」と聞いていたんですね。主人はダメやというて入院しているし、今度は社長の奥さんまでガンだというと会社は大変です。
「助けて~」といわれるけど、私は助けられへんからというていたんです。

それが丁度、三田屋本店を建てる敷地をお払いする前日だったのです。お払いの当日は田中先生が来られたのですが、すごい雨でお払いができない。田中先生と前北さんと谷さんと私と食事をしたときに、三田屋さんの奥さんをそこによんだんです。
病院では卵巣脳腫のガンだと診断されていた。本人は頭の中はゴチャゴチャで真っ青な顔をしていました。とにかく落ち着きなさい、と正法の話をしたりして、田中先生にお光をいただき、霊もとっていただきしているうちに本人は眠ってしまっているのです。さっきまでは大騒ぎしていたのですが。30分ほどして目をさましてました。顔色もまるで違って目も柔らかくなっているのです。ああ気持ちよかった。というているのです。

田中先生がその奥さんを見て「うわぁ~観音さんがおられる」「どんな観音さん?」というと絵を描いてくれて、聖観音さんでした。あくる日にもう一度病院へいく日だったらしい。夜に報告がありました。「何もない」って。瞬間に消えた。たった3日前には卵巣脳腫ガンと本人に宣告しているのですね。それで次に行ったら、ない。
そしたら医者は「こんなおかしな検査は誰がしたんや」といい、前にした検査を完全に誤診だと思っているのです。奥さん自身は医者もそういうものだからと、半信半疑で帰ってきたというのです。

それから4~5年も後に、たまたまその話になって奥さんがいわれるのに「実は私、言わなかったことがある。女やから言わなかったけど、田中先生の一件のあとの生理のときに、もうそれは口に言えないようなものが出てきた。魚のはらわたのようなものが、ものすごいたくさん出てきた」
かっこうが悪かったからかどうか4~5年は黙っておられた。僕は半分誤診かな?と思いながら忘れてしまってたんです。本人は、やっぱり田中先生にお光をいただいたことによって悪いものが全部流れていったんだな、と実感できた。と言われてました。

そいうことがあったりしながら、信長のことですが、信長、ナポレオン、龍馬、というのは今歴史的に考えてみると、どれも同じような生き方をしているのですね。どれも何かをしかけて途中でダメになっているんです。
信長のときには明智光秀という信じている者に滅ぼされた。
結果的に廣岡償治という人はどういう生き方をしたのか?というと、これから本店をつくり、そして舞台をつくって全国に羽ばたこう。というときに、もうガンになっているわけです。
信長も天下統一の直前に本能寺で49歳で死んでいる。同じ生命体、魂で同じような生き方をしてきているということです。
私もそのときに思ったのですが、もし仮に信長が生まれ替わったとすれば、三田屋本店どころではない。もっと大変な人になったのではなかろうか、と思うのですけれども、何か魂の傾向というものがあるように思うのです。

どうしてそのようになっていったのか?
420年ほど前に荒木村重一族が信長の命令によって無残に殺された。その殺された中のつる姫という方が自分の恨みを晴らしたい。ゆかりは三田。
三田の地でいつか信長に関係する者が生まれてきたら、その者にとりついた形になって400年前の思いを何かの形で晴らす。ということがひとつ。それと400年前の出来事を思い起こしてほしい。ということが流れの中にあったんでしょう。

その場所をたまたま三田屋の社長が買うというのは、つる姫が死んだ場所ですから。そこを買わされているわけです。
そこにどうして能舞台ができるのか?ということは、つる姫も荒木村重も信長もそうですが、能の世界というのは怨念、執念、怨霊とかの情念の世界を表現して、自分の魂を慰めている。

廣岡償治社長もガンになってダメだと思ったのですが、結局、能舞台が完成するまで死ななかったんです。
また廣岡償治は坂本龍馬が大好きでした。実は池田市のところに三田屋の支店があり、そこの一階上にディスコをつくったんですが、店の名前は”坂本龍馬”というのです。それに彼は自分で「ボクは坂本龍馬の生れ変わりだ」と、前からずっと言っていた。坂本龍馬の歌を作ってみたり、妙に坂本龍馬に対して興味をもっていた。
この話は全然先生には言ってないのですが、先生はナポレオンと坂本龍馬と廣岡償治は同じ生命体である、といわれた。

この本は自分が前から持っていた本ですが、信長についてもう一度文献を調べてみた。
信長の実像ということで、堺屋太一と山崎正和さんが対談しているのです。
私は廣岡償治と非常に近い関係にありましたから、彼がどいう動き方をするか?どういう考え方をするか?は逐一わかっていました。信長は知りませんけどね。
師匠もいなければ軍師もいない。完全に自分ひとりでやっていく男なんです。信長の場合も家来がずらりとおって、彼がポツンと一人いる。
普通の会社とか戦国時代は頭がおって、その下に何人かの人がいて又、その下へとピラミッド型になっているのですが、信長の国の治め方も廣岡償治も、社長がいてあと全部社員なんです。
だからものすごくカリスマ性があって、自分でドンドンやっていくタイプだった。細かいことは苦手だけれど大きなことでパッパッと動くのはうまかった。しかし、人に裏切られることが多い人間でした。

先生が、「ナポレオンにしても信長にしても龍馬にしても、結局誰かに裏切られて死んでいる。それを同じパターンで3回も転生したとすれば廣岡償治という人は、”人は絶対に信用しない人間になるはずだ”とおっしゃた。事実、誰も信用していませんでした。唯一、自分の肉体だけは信用できると思っていたのに、自分の肉体にさえ反乱をおこされました。結果、自分の体の中にガンができて病気になり死んでしまった。

ものすごく独裁的な人間であるとか、攻めるのには強いが、守りにまわると弱いとか、この本の中に書かれているのですが最後のところに、「もし仮に、信長が今の時代に生きているとしたら、どんな事をしていただろう?」と二人が想像している。
「彼(信長)が安土につぎ込んだ愛情は大変なものであった。つまり、よそ者が来て、言ってみればニュータウンのようなところへ移って来て、そこで毎日能をやっている。そんな人ではなかろうか」と言っているのです。
確かに廣岡償治という人は三田ではよそ者なんです。よそからやって来て能舞台をつくって能をやっているのです。そんなことを堺屋太一と山崎正和が話をしているのです。これもこの事件があるもっと前に出た本ですからね。なるほど先生のおっしゃったことは本当だなぁと思った。



昭和62年4月30日に舞台開きをやりました。
61年の12月から工事にかかり4ヶ月で、あれだけのものを造りました。その時には社長は病院から出てきました。頭は抗がん剤でツルツルですし、歩くのもやっとだったんです。このときの挨拶は、「これでワシが死んでもやる!」と止めてもきかなかったんです。
挨拶のときの衣装も全部注文して舞台へでた。食道ガンですから声がでにくいのです。本当に息も絶え絶えという状態でしたが、きちんと挨拶をして引っ込んだ。その状況を関西テレビが撮って何回も「能舞台にかける夢」ということで流しました。

その後、舞台開きのときの記念誌ができた。
この中に舞台ができる経緯を書いてあるのですが、関西学院の理事長の久山先生が「廣岡償治さんが三田の地に能楽堂を建てられた。前から食道ガンというのを知っていたので、その生々しいお姿、手術の傷をセーターで隠しながら、咳をしながら工事を陣頭指揮しておられるのを見て、すばらしい感動を覚えた。その舞台開きのときに私は、ふと信長が桶狭間に出陣するまぎわに陣内で能を舞って 「人生五十年下天のうちをくらぶれば、夢幻のごとくなり、ひとたび生をうけて滅せぬもののあるべきや」 と謡って舞った、という話を思い出したと書かれていた。このお話も何の情報もいってないのです。久山理事長は、その挨拶の姿を見て、信長の姿を彷彿とさせるものを感じられているのです。

歴史的なこともいろいろと調べてみたんです。
私も廣岡社長とは長い付き合いですが、ある日突然言いだしまして「森脇君、能舞台を作るで!」
和食の料理屋とか、旅館に能舞台があるのだったらわかりますが、ステーキですからね。「えー、おかしないですか?」というたのです。「いやいや、最高の芸術は能や」というてきかないんです。そんなわけで完成して一回だけ、彼はその舞台の能を見ているんです。「翁」を見ただけで死んでしまった。

その後、私も信長の歴史を調べていたんです。
そこで安土に何回も行きました。安土城の跡です。石垣しか残っていません。安土城の天守閣の西側の一段低いところに、そうけん寺という寺の跡があるんです。今は三重の塔しか残っていません。そのそうけん寺の建っていたところに実は能舞台があったそうです。

それで現場へ行きましたら、琵琶湖の西の湖があって、城の高台があります。段が三段ほどになっていて一番低いところに舞台があって、一段二段の高いところに寺があったと説明をうけました。
私はその場所の寸法をとってきた。高いところに寺の本堂があって、ここに信長が座った場所というのがわかるんですね。そこに座ったとして、能をどういうふうに見たんだろうな、と思って復元図を作ってみたんです。
そしたら信長が座っている場所から舞台を真正面に見ますと、真西なんです。
ということは、夕日が沈む時に能舞台の向こう側に陽が沈むという形に造っているな、ということがわかったんです。

信長は太陽というものに非常に興味をもってましたんで、これは春分の日か秋分の日の日没のときに舞台を見ながら西の湖に陽が沈むという状況を設定したんじゃないだろうかと思ったので、5年ほど前から秋分の日か春分の日になると私は安土へ行って見てたんです。雨が降ったり、行けなかったりしていた。

去年の春に行ったとき天気もよくて、信長が座ったであろう場所にシートを敷き、皆でお酒を飲みながら陽が沈むのを待っていた。私が想定した舞台の左側に赤い陽が沈むのです。沈んだら400年前ですから、篝火にかわるという素晴らしい場所なんです。
そのことを三田屋本店の舞台を造って4年も5年もしてから気がついたんです。
そのあとで私が造った三田屋の図面と安土を比べてみたら、三田屋の舞台は見るところから見ると真東に造ってあって、舞台の向こう側に山があり、満月が昇るときに丁度能舞台の上に月が出るように造ったんです。夜の7時から能をしますので、そいう形を思いついたのです。
大分お金がかかったのですが、わざわざ建物全体の向きを東側に月が昇る方向にあわせて造ったんです。

安土にあった能舞台と三田屋に造った有馬能楽堂というのは、まるっきり反対を向いているものでした。安土は夕日を、三田は月の出を見ながら能を見る、という形になっている。
私が描いた図面では舞台から観客席のところまできちんと15メートルあるのですが、安土の私が復元した図面の場合も、距離は同じ15メートルだったんです。
まったく同じものが真東と真西向けに出来ているのです。そんなこともありました。
私が当時、信長にからんでたとしたら、その舞台を造った人間かなと思ったりしています。

舞台開きのちょっと前に社長がいうのには、三田屋本店で有馬能楽堂というのですが、何かこの場所全体にいい名前をつけたい。何か・?「ウン、ここな、安らぎの郷(さと)。ってどうや?皆がここに来て、おいしいもの食べて能を見てもらって、安らいだ気分になればいいんじゃないか」といわれた。
後で思うと、安土と書くと、安らぎの土地と書く。安土をひらがなで書くと、やすらぎの土地そのものでした。これ偶然なんでしょうか?すばらしいと思いました。

信長と廣岡償治とは、非常におもしろい共通点があるということと、廣岡償治という名前なんです。広い丘に、しょうじは償うという字と治める、と書くのです。
つまり400年前に信長であった廣岡償治の前世のときに、非常にたくさんの人を戦のために殺している。その霊たちを慰めるために、そういう丘に能舞台をつくった。広い丘のところにお店をつくり舞台をつくって能をやり償い治めるという名前にもなっている。
このようにたくさんの不思議なことがドンドンでてきたのです。

信長という者が次に転生してきて、当時殺されたたくさんの人たちの想いが絡んできて昭和となり、その想いが形となって表に表れてきた。
これがもし仮に、瀬川先生に関係ない方が設計したとします。そいうものを建てさそうとした方から見れば、分かってもらえないのなら意味がないわけです。つる姫の思いにしても400年間ずっと思っていたことを、どんな形で実現させようか!と。
そうなると瀬川先生のところへ、その話を持ち込む者がいなければいけなかった。そこに私がいたわけです。
廣岡償治が私に仕事を頼み、私が瀬川先生に相談を持ちかける。
廣岡はガンで死にました。そして”やすらぎの郷”はできたのです。

これ以外にもたくさんのことがあるのですが、時間の都合上かいつまんで話をしました。 


瀬川先生は最初に本当は、三田のその土地を一大霊園にして欲しい。と言われていた。そしてその一隅に信長の怒りによって無残に死んでいった荒木村重一族の慰霊碑を作りなさい。ということでした。
瀬川先生は奥さんに言われた。廣岡償治は織田信長の生まれ変りである。
前は一番信じていた明智光秀に滅ぼされた。今度はお前が一番信じている肉体に滅ぼされるよ。そのために反省しなさい。と教えた。反省したらガンが痛まない。涙こぼして反省したら不思議と痛まない。
しかし、自分が神であると思うぐらい自信過剰で、前の性が出ていて言うことを聞かなかった。やっぱり信長でした。
せっかく瀬川先生に会うチャンスを神仏より与えられたのに、自分以外は誰も信じない。そこにあの人の仏縁がなかったのです。
「俺がもし命永らえさせてもらったら反省の宗教をつくる」といったけれども。瀬川先生のいわれることは聞きませんでした。

 
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