我聞17


ノストラダムスの予言

1987-5-24  須磨法座

 

今いろいろと世間では、この世というものが終わってしまう。と霊能者たちは様々な予言をしております。
フランスのノストラダムスという方が、もしこの世の終わりというものがくるなれば、それはヘンリーである。と謎の言葉をいっている。
彼は400年後の世界は電気を中心とした文明が花咲くことも知って、誰も気づくことができないアナグラム(字謎)の四行詩を後世に遺した。

彼のいう”死の代名詞ヘンリー”とは一体何か!
正に人類はこれによって滅ぶ。これに気づかないかぎり必ず滅ぶ宿命を背負っている。
しかも、この”ヘンリー”はすでに自らの意識の内部にあって、それを取り除くには、人類自らが意識の革命をなさぬかぎり絶対不可能だということだ。

ところが、それを翻訳する五島勉氏すらも、ヘンリーとは何かということを知らないのです。ヘンリーとは一体どういうものなのか?なぜヘンリーによって世の終わりが来るのか?

この問題はとても大切なんです。そこで禅定三昧にふけりました。ずーと深く。一日、二日、三日、四日、五日、そして一週間目にノストラダムスの意識とコンタクトすることができた。ヘンリーの実態、アンゴルモアの大王の意味も一挙に解けてしまった。

何のことはない。ヘンリーとは電気用語の中にある、自己誘導係数のこと。自己誘導係数とは、自分の思いや考えを行動に移すことをいう。そして、それに対抗するものが、オーム(抵抗)。いわゆる法則なんです。
この法則というもの、宇宙の真実の法則を人間自らドンドンと見失っていってます。人間が作り出していく色々の法律は、自分の都合のいいように、都合のいいようにと折り曲げていってしまいます。

もしここに、あらゆる人間の心を管理する法則というものをとってしまったら、一体人間はどうなっていくんだろう。

我々が人を殺しても法律にふれない。交通規制もない。何をしても法律にふれないとしたら、人間が思いのままに行動していったら、どういうことになっていくのか。
たちまちこの世は地獄です。女の人には大変な世の中になっていきます。力が優先していきます。一家の安全、幸福なんて守れません。
そのヘンリーがもっとも力を発揮するのが戦争です。戦争はヘンリーを集団心理でさらに加速させ、その凄まじさを遺憾なく発揮する。

そしてそういうものを救う唯一の方法として、”アンゴルモアの大王”が蘇ってくる。と五島勉氏はおっしゃってます。
アンゴルモアの大王とは、東洋の思想である。
そしてそれを我々は見失ってしまったのです。この東洋思想のどこが世の中を打ち立て直していくのだろうか。やはりこれも神さまにずーとお伺いをたてていきました。そしてこのようなお言葉をいただきました。

古くして古きものは滅び 新しくして新しきものも また滅ぶ
しかし 古くして今も新しきとするものは 完全であり 
永遠をつらぬく真実である
真理は世の初めからある もっとも古き存在なれど
世の人が学ばねばならない もっとも新しい法則であり 道である

真理は 宇宙にあっては 哲理となり
自然にあっては 摂理となり
物にあっては 物理となり 
人にあっては 心理となり
天地自然をつなぐ 神ながらの道である

また 日本人は そうした自然の森羅万象に 神の息吹を観じ
万象万物に命を感じ すべての祖を尊び
自然という命とともに 生きようとした素晴らしい民族である

世のすべてに理あり 理はすべての基となり
基はすべての道を創って 神ながらの理の道筋とする

道 それぞれの道 
天地をつらぬく 神ながらの道 
日本の天皇にあって皇道あり
人にして人の道あり
茶道あり 華道あり 書道あり
芸道あり 剣の道あり 柔の道あり

それらのすべては 礼節を重んじた作法という行為を通して
それぞれの道の奥義をきわめ
神妙にして没我なる 神我一体の境地に分け入ろうとした

親と子の道 夫婦の道 兄弟姉妹の道
友の道 隣人の道 人の道 主従の道
それぞれが それぞれの道をわきまえ心がけずして平和と繁栄はない

親 親となって 子は子となる
夫 夫らしくあって 妻 妻らしくあり
兄 兄たんとして 弟 弟たり
姉 姉たるとき 妹 妹たり
友 友たりえんとするとき 友また友たらんとし
隣人たらんと義をつくすとき 隣人もまた義をつくすを心がけ
人に真を尽くすとき 人も真を尽くさんと励み
主の主たらんと励むとき 相手もまた従わんと励むべし

ならば 自らは謙虚にして 常に他を敬い 
真をもって礼節を重んじ 作法を尽くして他に接すべし


 

我々東洋人ほど、道ということをわきまえた民族は他にありません。
我々が言葉でいうと「あなたの言うことは筋道が通っていない、道理が通っていない」というのは実にこれなんです。
我々はその宇宙大自然の道理、道のことわり、あるいはまた、その道筋をわきまえた者が東洋の民族です。
そして、それはひとつの仏法というものを通して、皆一如にインド、中国、韓国、日本、全部その筋という、神ながらの道を知っていました。

東洋の人は、祖というものを崇めます。
神様というものをあがめます。また自分たちの肉体先祖様を崇めます。親を崇めます。兄を崇めます。姉を崇めます。
そしてひとつの真っすぐな軸心によって、はじめて駒というものは円滑に回っています。これを我々は間違ってしまいました。

我々は外国から入ってくる思想、西洋文化から入ってくる思想、これに惑わされます。これが何か新しいものだと思って、東洋本来のすばらしいものを忘れて、何か新しいものだと思い、これによって幸せになっていくんだ。
ここから起ったものが共産主義、自由主義です。
ここから何が起ったのか?闘争と破壊。なぜか?

西洋の唯物という中には、たとえばそういう共産主義、自由主義という思想を突きつめていくならば、これは経済の分配法であって、心の有りようではありません。東洋の思想のように心というものを認めて、その心というものを中心にして生きていこうとする思想じゃないからです。

東洋の仏法は、己の生をみつめ、死をみつめて、生きるとは何か、の意義について思索の知恵をめぐらす。それが仏法本来の精進のあり方なんです。
つまり東洋的な精神世界の、哲学的な心の視野で観る深さ、鋭い観察眼によって全体の中の個を見つめ、個と全体の協調の中にこそ、全体の永遠性や繁栄の秘密がかくされてい
る。
全体の繁栄なく個の繁栄はないことを私たちは悟るばかりでなく、私たち人間は全体から生かされて生き、生きることによって全体を生かし支える調和の世界に生きて、一木一草の存在さえ、自分にとって不可欠なのだと知ることである。
仏法からくる慈悲といった中道精神は、どんな場合も双方の真ん中に線を引き、話し合い、ゆずり合うことによって共存共栄しなさい。と教えている。それが中道です。
その精神こそ、アンゴルモアの大王なのです。

宗教も思想も人類の前に一つでなければならないし、慈悲を説く仏法と愛を説く聖書が、十字にクロスするところに、新しい精神世界が生まれる。

地球という大自然。この世の環境は精妙な自然のバランスの中になりたっている。何一つ欠けてもいけない。たとえば酸素も動物が酸素を吸って、炭酸ガスをだして、植物がその炭酸ガスを吸って酸素を出す。空気という有限のものを無限に循環させている。あらゆるものは輪廻している。人間がその自然のバランスを崩すと再生できないほども荒廃して大自然を破壊してしまうのです。
人間も同じ自然から派生した生きものならば、共存共栄してこそ永遠を約束されている。

西洋の物質文明の考え方は、人間は至上の生きものであり、人間が自然を征服し、支配し、自分たちの都合のいいように作り替える、といった傲慢さが存在するのに反し、東洋の精神文明では、人間も自然の一部であり、自然の営みの一部である以上、人間は絶対に自然と分離しては生きていけないし、自然と共存共栄を図って生きるべき生きものだという考え方である。

しかも人間だけが動物とちがって知恵を使って、自然に協力できる唯一の存在である。
だから、これからの社会は文明の発達が阻害されても、すべてのものを再生し復活させて、自然の環境の保全や生態系の保存に対して貢献する文明の発達が必要なのだ。

たま出版息子シーザーが残したノストラダムスの唯一の肖像画

「聖なるものを犬にやるな。また真珠を豚に投げてやるな。恐らく彼らはそれを足で踏みつけ、向きなおってあなた方に噛みついてくるであろう」
(マタイ福音書七章六節)

予言者たちは、不死なる神と天使によってのみ、予言の霊をうけ、物事を予見したり、未来の出来事を前もって語るのだ。
神の存在なくして、何事も完全には出来えない。

(息子シーザーへあてた手紙より)
たま出版 諸世紀より


 
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