我聞21

正法という精神世界とは  2008-6-15 大阪講演会

正法というのは精神世界であり、しかも深い深いものです。
解かったとか、悟ったとか、そんな簡単なものではなく、魂そのものが納得するものであり、理解するものではありません。
そこから見ると、この人生で色々のところを通って来てない人の魂は浅い。
経験不足というかものすごく浅い。喜怒哀楽の人生を通ってきた人は心が深い。これは何故か?自分の業が深ければ、人生が波乱万丈になっていきます。思うようにいきません。何故、思うようにいかないのか?と、人間はその都度、無意識のうちに反省しているので
す。

一番大事なことですが、人間と獣はどういう違いがあるのか?動物はあくまでも自分が中心です。好くしてくれる人には尾っぽを振って寄っていく。強い者には尾っぽを巻いて逃げてしまう。弱い者には食ってかかる。
これは動物の特長です。

ところが人間のすごさは、いかに自分から離れられるか?
自分から離れて自分を見つめないと、自分を裁けないのです。
自分から離なれて第三者の目で自分を裁くということ。自分を裁くというこの能力は神の子の証なんです。これが出来なかったら動物と同じなんです。
全部、人のせいにして自分のせいにしない。その自分を裁くところに神の子の進歩があるのです。下手うつと人を裁いてばかりしてしまう。人を見つめてばかりで、自分を見つめることがない。
自分をしっかりと見つめる。見つめるためにこの世に来ているのです。
そして自分を裁く力を持っていないと到底進歩しないんです。人ばかり裁いている人は進歩しません。


今回の反省研修会で”達磨はなぜ東へ行ったのか”の映画を見ていただきました。そこからどれだけのものが解かるのか?

今の修行と違って昔は出家をします。
家族を捨てて家を出る。男としてしないといけないことを全て捨てて出る。
そしたら罪の意識が自分を追っかけくる。今みたいに在家でハハハというているのじゃないのですよね。今でも宗教の儀式のなかにあるんですよ。
たとえば出家しますね。そのときに家族を呼び、白装束を着て剃髪する。そこで俗世との縁を切る。親が死んでも会えない。僧門に入ったのです。
僧は人偏に、かつてと書いてある。僧は、曽って人間であったということ。
仏門に帰依した者は、かつて人間で今は僧なんです。
昔、Yさんの息子さんが出家した。剃髪したら法名をいただいて御仏に仕える行に入る。そんな生易しいものではないのです。これが出家です。

映画、”達磨はなぜ東へ行ったのか”の中の修行僧が、家族を捨てたという罪の意識が追っかけ追っかけてくる。だけどそこでヘゴグ禅師という、すごい韓国の師に出会い仕えるのです。

禅の境地と修行の段階を表したものに”十牛図”というものがあります。
それを映画にしたのが”達磨はなぜ東へ行ったのか”です。

皆さんも正法に入ったとき、本当の自分というもの、欲や煩悩にまみれた自分じゃなく、本当の自分というものを探そうと、初めは皆、思ったはずです。
これが「尋牛」というのです。本当の生まれたときの自分というもの、その中に真実がある。我々は欲や煩悩にまみれて薄汚れた自分に気がつくと、本当の仏としての自分は一体どこにあるのだろう?と思い始める。
これが”十牛図”の中の「尋牛](じんぎゅう)です。
牛とは本当の自己、仏であるところの自己です。

十牛図 (これは禅の境地と修行の段階を十段階で表している)

一は、尋牛(じんぎゅう)本来の自己、霊としての仏性の自己(牛)を探す
二は、見跡(けんせき)手がかりを見つけた
三は、見牛(けんぎゅう)
四は、得牛(とくぎゅう)
五は、牧牛(ぼくぎゅう)
六は、騎牛帰家(きぎゅうきか)
達磨は何故東へ行ったのか、の映画は六段階までの悟りの世界を描いている。

牧牛七は、忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
八は、人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
九は、返本還源(へんぽんかんげん)
十は、入てん垂手(にってんすいしゅ)

そして、この正法によって自分の仏に出会う方法を教えていただく。それが「見跡」(けんせき)という。その足跡を見つける。自分の人生の足跡を見つける。この「牛」を見つける手がかりを得るということ。


そして、三番目が「見牛」(けんぎゅう)牛を見つけた。本当の自分を。
だけどまだ、どうしても手に入らない。欲や煩悩が邪魔をしてしまって。
その証拠に、人を見たら人間はすぐ変わってしまう。自分ひとりの時は「そうや、そうや」と思っているけど、人を見たら「そんな人のいいことばかりをやっていたら損ばかりするわ」言うて、なかなか解かっていても手に入れることはできない。「人を優先するとか人を思いやることばっかりしててもあかんがな」と言って。
「道が見えても身につかず」というのはそこなんです。

次は「得牛」(とくぎゅう)その牛を捕らえようとする、ところが牛があばれて、すきあらば逃げてやろうとする。これはどういうことか知ってますか?
やろうと思っているのに今度、運命がメチャクチャに荒れてくるのです。とってもそれどころじゃなくなる。やっとこさ手綱を引っ張っているのが精一杯なんです。それがあなた方です。

そこで、ここから次がどうしたらいいのか?「牧牛」(ぼくぎゅう)
この牛がたえず自分にところいるように飼いならしてみようか、という気持ちになる。牛が思い通りならないのだから飼い慣らしてみようか。迷いが来てまた逃げ出すことのないように飼い慣らそう。そこで一旦飼い慣らしたつもりになる。
そこで映画の中では、亡くなった禅師を荼毘に付すのです。一人で禅師の遺体を焼いた。そして遺骨を砕いて自然の中に散骨する。
そのあとで「わかった!」と言いました。こうして禅師について、ここで行をやったけれども、結局は人間なんだから「人間らしく生きて人間らしく死ぬ」ことが本当のものやと思った。

騎牛帰家」(きぎゅうきか)そうして家に帰って日常生活に入った。それが今のあなた方
や。喜怒哀楽の世界へまた帰ってしまった。欲にぼけたり、迷いがいっぱいになり人に不信感を持ったりして、また同じことをやっているのです。
ところが”達磨はなぜ東へ行ったのか”の映画はここで終わっている。

自分の禅師を焼いてから「そうか、そんなにして牛を追いかけていたけど、人間は人間らしく生きて、人間らしく死んだらいいのや」と言うて、その牛を連れて帰ってしまうのですね。
これが「騎牛帰家](きぎゅうきか)だから六番目の段階でもう帰ってしまって、また俗世界に逆戻りしておられるのです。
もっと早い段階に逆戻りしたり、ここで逆戻りしたり、結局みんな逆戻りしてですね。「そんなことしてたら飯が食えるかいな、要領よく生きなんだら、ずるく生きなんだら」と言いながら、不信感と対立と欲まる出しの世界へ戻っているのです。

忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
ところがね「悟った。真実の自己を見た」。その「牛」すらも忘れた人がこの正法のここに残る。それは自分が自分を得たことにいつまでも執着しない。「悟った、悟った、俺は偉いのじゃ」とやらないのです。
何故か知ってますか?この気持ちはよ~くわかります。何故かと言うと、本当にその境地まで行ったなれば神仏は後ろにおられる。だから最早悟ったことすら忘れている。

うちに観自在菩薩の仏像がある。「何だ、そうだったのか!」と悟られた仏さんは力を抜いて座っておられる。それは「牛」をも忘れて、真の自分を得たことにも執着しない。神さんがすぐそばにいて下さる。ものすごい安心です。

最後には「人牛倶忘」(じんぎゅうぐぼう)
人も悟ったことも忘れてしまう。凡夫の心も聖人の心もない。一切が相対を超えているから絶対なんです。自分の思いが宇宙の思いであり、神の思いであり自然の思いである。それが如意法輪である。
悟ったことすら忘れている。自分が法であり、光であり、癒しである。人も牛も忘れている。牛を探していた自分も忘れてしまう。それが宇宙即我である。
自分が絶対になっているんです。相対というのは互角の相手なんです。
自分が上へ突き抜けてしまって天上天我唯我独尊になったら、相対がもういないのです。
一切の相対を超えた世界が絶対であり、敵がないのです。あなた方が張り合っているのは皆、互角やからです。

返本還源(へんぽんかんげん)
すべてがもとに返り、源に還った。空となって全てを超越する。それを雲水という。雲水というと坊主ととりますが、雲と水と書いてある。
雲は風の力で移動してるだけ、水は下へ落ちていく。
すべて法(水が去ると書く)なんです。
法が自分であり、自分が法なんです。そこまで行くと最早そこには全部自分の心です。張り合う相手がいない。そして世の中の栄枯盛衰を見ている。
無為という寂滅為楽の世界に入っていく。そのとき自分はもう親なんです。
親だったら子供の面倒を見るのは当たり前でしょう?

そこで、入てん垂手(にってんすいしゅ)に入っていく。
それは一切のこだわりを捨てた世界。そこに自分がいる。人に手を差し伸べる。行く先々で人を感化する。彼岸に導いていく。あるがままの世界を自由に生きる境地に到達する。これが如意法輪です。これが私です。
もはや私の前に相対がない、全部が子供です。それがイエスなのです。

 

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