我聞25

正法という真理


1989-5-7 豊中

正法というのは宇宙の最高の真理だな、とつくづく感じております。
しかしながら、なかなか今の人間というのは、それを知で追ってしまうんですね。知識や知恵で追って、それで解ろうとします。

私の話を皆さんに聞いていただきます。ところがいつも一緒の話やないか、という言葉がちょこちょこ私の耳に入ってきます。しかし私の話が違ってしまったら、これは真理とは違うんですね。同じ話だから真理なんです。
ところが同じ話でも皆さんの心がズーと上がっていきますと、見えてくる景色がまったく変わってくるのです。

昔に”ベンハー”という素晴らしい映画がありました。
これを小さいときに見たら「すごいな、すごいスペクタルだな、相当お金がかかっているやろ」それぐらいの感動しかありません。しかし、十年経って同じベンハーを見る。画面のそこには場面も言葉もひとつも変わりません。ところが十年経って見たその映画は涙なくては見られません。なぜだろうか?
同じ映画で同じ場面だけれども、見る人間のそれを理解する心が違っているからです。そこに皆さんが気がついてほしいのです。

だから同じ話をされるなぁ、と言われる方は、ひとつも精進やっておられないんです。
精進すればするほど、私の言うている話の意味あいの深さそのものが本当に分かってくるはずなのに。しかも、もっともっと上の精妙な精妙なところに触れようとやっております。そうなれば皆さんの心も、もっともっと進歩向上して精妙になってなかったら感じることができないんです。

波動の荒い人が精妙なもの感じることができないのと一緒なんです。
だから皆さんがどれほど精進されてるか、ということです。私の話が同じやといわれる人と。そうじゃない、いくらやってもいくらやっても追いつけない、ということが本当に分かってくるはずなんです。

今から2000年前のイエスのお弟子さんも、己の貧しい知識や知恵、また自分の貧しい心でイエスを推し量ったんです。肉の眼でイエスを見てしまいました。
そこでイエスを十字架に送って、お弟子さん方は何ひとつイエスのためにすることがなかったんですね。

同時に、正法というのはすごい真理なんです。
ところがここに寄って来られる色々の方は、どうしたら病気が治るか。どうしたら少しでも幸せになれるか。どうしたら運命が開けるか。
目的が低いんです。だから、どれだけ最高の正法を説いたとて、そういう目的でものを聞いておられるんですね。しかも反省を数回したらもう反省は済んだと思っている。大きな間違いです。

この正法というものは、本当に行じていかれたら如来の段階まで行ってしまうのです。だからそれは如何に強く正法を求めているか、というその度合いによっていきます。

しかも私が、皆さん方が十年かかっても二十年かかっても、一生かかっても会得することができない最高の法をね、簡単に説いてしまうのです。だからそれほどの感動を皆さんが伴わないのです。惜しいことやなと思います。

どういうひとつの話でも、あなた方に「これ解いてごらん?」というたら一生かかっても解けないものを、パッとこの場で言うてしまう。
最初の人は「すごいこと言われる」と思うのですけど、段々貰うことになれてしまって、ただ知識として心の隅にポッと留めてしまわれるだけなんです。
だから”もったいないことをされるな”と思います。天から来たすばらしいものを、なんともったいない処理の仕方をしておられるな、と私は思います。

たとえば、イエスの信仰と祈りについても、また本当の悔い改めについても、イエスのいう真の自由の本当の意味も、私は常に天の側、神の側から繰り返し繰り返し説いてきました。
しかしながら地上の人は上品(じょうぼん)中品(ちゅうぼん)下品(げぼん)というように。上品の人は三百人に一人ぐらいしかおりません。悲しいことやなと思います。

上品の人というのは、自分が求めてるものがこれだと解かったら、命がけで精進する人をいいます。
中品という人は、こうして話を聞きに来られる。その時はそうだなぁ、と思う。またしばらく経ったらそうでもないようにも思う。ようわからん!と思う。これがいわゆる凡夫です。
それから下品の人は、そんな馬鹿なことあるかい。頭から一笑に付してしまって、こういう所へもやって来ません。そんな馬鹿なことあるかいな。神さんある?あの世?そんなものありません。と思う。
この世の中というのは、こういう下品の人と中品の人が非常に多いのです。

ここへ来たら「そうやなぁ、そうやなぁ」と思い、色々の難問題にぶつかるとしっかりした核心がないから、そうでもないと思われるのか、自分の思いや考えで事を処してしまわれる。

「本当のことを言うてみなさい」というと、「ようわからん」 これが本当なのです。だから我々のことを煩悩具足の迷い人、盲者というのです。

反省一回受けた、二回受けた、三回受けた、もうそれで終いやと思っておられる。あなた方が自分の仕事、自分の商売、どれぐらい熱心にやっておられますか?
その熱心さの半分で正法にもかけられたやろか?大事な自分の人生ですよ。

頭のよくない釈迦の弟子のチュンダパンダカでも、精進によってひとつひとつ解からせて頂いたのです。


この前に本当に人間性のいい、すばらしいK青年が来られました。
その方が三ヶ月間反省道場にこもっておられました。その方が本当におもしろい冗談のようなユーモアたっぷりで三ヶ月間のことを言うんです。

丁度、反省道場の前に蓮池があります。その蓮池に水を飲みに鳩がたくさん飛んでくる。野鳥が飛んでくる。そしたらそこに真っ白な猫が鳩を狙っていつもやって来る。ところが鳩は敏感でしょ?猫は毎日毎日、草むらに隠れて狙っているのです。ちょっとネコが立つと鳩がパァ~と飛んでいくんです。

最初はネコがそうして窺っていたら鳩が可哀想だから「ハト、早いこと気ついて逃げ!」というていた。
しかし、そのネコが一ヶ月もニヶ月もじっといつも同じところで頑張っていたんです。終いにはそのK青年はネコが可哀想になってきた。毎日同じところで頑張っては鳩がピューと逃げていく。
ところがある日パッと見たら、そのネコが鳩をくわえてスキップ踏んで喜んで行きよった。

これを見て、神さんは何を教えておられるのか? 挑戦なんです。
「わからん!」と思わないで、努力して努力して努力したら、お前もやがてお前が求めているものを自分のものにするぞ!と、鳩をとおしてネコをとおして教えておられる。
それから又、野鳥が小さい子供を連れて、お父さんお母さん子供が一列にならんでいる。これが家庭のあるべき姿なんですね。本当のものは自然をとおして教えてもらいます。
そのように自然界をみても、次から次から教えてくれるものがあります。
チュンダパンダカはこういうことを通してでも教えてもらいました。

それからK青年はこうも言うてました。
蓮池がきれいに澄んでいたら太陽が実物以上にきれいに映るんです。
ところが風が吹いて水面が乱れると汚くただピカピカしたものしか映らない。

それと同じことで我々が反省しない前は、人の汚いものばかり指摘やっています。あいつは悪い、こいつは悪い、うちの嫁さんのここが鼻持ちならないと。
ところが反省して自分の心の面をきれいにしたら、相手の美しい仏心をそのまま写し
取って、尊敬せずにはおれなくなってしまうのです。
あなた方、人の良さというのが見えましたか?自分が反省しない前は、人の悪いところばかりが見える。
今はどうだろうか?今、自分が相手の欠点ばかり見えていたら、その方はひとつも反省やっておられない。


今ここに佐々木鉄夫君がおります。
この方で正法を精進されて丁度1年4ヶ月ぐらいです。仕事をほって正法精進をずっとやっておられます。色々のことがわかってきますんやね。

この方は最初、自分の病気を治そうと思って正法に入ってこられた。
いわゆる高血圧性腎臓病でした。透析手前です。この方の場合、命がけの精進やったと思います。
ものすごい反省をし、禅定というものをやっておりましたら高血圧性腎臓病がずーと治ってきました。その頃になったら病気が治っても、正法から離れることができません。正法の深みというものを知ったからです。ものすごい正法って深いものやな、普通の宗教のようにお経をあげたらいい、会に日参したらいい、というものではない。もっと深みがあるということに気がついていかれた。

とうとう今年の1月に「もっとやって行きたい。何をしても正法というもの忘れなかったらいいんやから、断食道場に入ってきます」
「すべてが正法やから行っておいで」といいました。
2ヶ月経って帰って来られて報告がありました。
「皆さんの食事の量の三分の一で、生駒の山を10キロ歩くことができます」
そしたら皆さん食べ過ぎて食物の毒で病気をしておられる。飽食の末、病人続出です。それが一つわかってきました。

娑婆っ気を遮断していますから、心きれいですわね。
ドンドンその中で反省、禅定をやっていきますとファイルのようなものが見えて来た。そのファイルには何年何月何日生、佐々木鉄夫。後ろの方に何年何月何日没、佐々木鉄夫。と書いてある。この方がそこに意識を集中させていきますと、その没、ということが去年やったということがハッキリわかってきた。

そうするとこの方は、もし正法をしてなかったら高血圧性腎臓病で去年亡くなっておられた。
それがわかってきた時に、もう涙がいっぱい出てきた。
そして今、生かされているという中で、呼吸ができるということに感謝がでてきます。この眼でものが見えるということに感謝がでてきます。耳が聞こえて、舌で味わえて、口で話ができる。これが何とすばらしいことか!
そして私に言われた。「これが感謝の原点ですね」「そうや」

人間は感謝というものを突っ込んで、突っ込んでいくと、息する中に感謝が出、息をはく中に感謝が出、目覚める中に感謝が出る。
高橋信次先生が心の原点と言われたが、感謝の原点もここにあった。
そこまでいった時、初めて生かされているということがわかるんです。

それから今ひとつ、「よくよくこのファイルを見たら、きれいに消えているところと、黒く消えてないところがいっぱいありますねん。おかしいなぁ、何でこんなになってるのかなぁ。消えてないところに意識を集中させていったんですね。そうすると日にちも何も書いてないのに自分は解るのです。この時は自分が何歳で、この時に自分のお父さんは義理のお父さんや、ということを知って、心を小さくして、ひがみぽくなってしまったな。次、社会に出てこういうことがあって、ひがみぽくなった。と全部わかりますねん。先生ほんまやろか?」

「本当や。よう聞きや。黒く残ったところはまだ消し込めてないところや。次にあなたが生まれてきて、ここを消しこむための人生の勉強をするのやで。あちこちまだ残っているやろ?ここまで来たんやから、もういっぺん消し込んででしまいなさい。原因がわかったら消し込む方法がある」といいました。

それから今ひとつ、「禅定をしていたら真っ赤になって、オレンジ色になって、黄色になって白光色になった。そしたらあっちに黄金色のものが見えていた。あれは何ですか?」
「お前、そこまで行ってくれたのか?入れたか?」「入れません」

「実はそこが仏界や。入れないわな?まだ消し込んでないわな。これが消し込めたら、いや応なしにそこへ入れたやろけど。まだ消し込んでないから入れないわな。低いとこやったらいくらでも入れる。自分より低いところ、地獄霊の見えるところやったらいくらでも入れる。仏界という本当のところは、本当のことをしないと入れない。しかしお前、そこまで精進やってきたか」

私は嬉しかった。「私、この十何年間やってきたけど、ボクの後歩いてきてくれた人ひとりもおらなかったから、お前一人でもいい、まっすぐ歩んできてくれたな。たいがいの人は低いところで離してしまいよる」
ものすごい私はうれしかった。

「2ヶ月間の断食が終わって神戸に帰るのに大阪をどうしても通過せないかん。大阪で人ゴミに降りたらフラフラになった。何でこないフラフラになるのかなぁと思ったら、人から出している毒気やった」



「そうだろう。たとえばきれいな空気のところにいて、いきなり空気の汚い場所に行ったら空気の汚さよくわかる。お前はずっと禅定三昧、反省三昧、徹底してやっていた。しかも最後の留めさすために生駒の山中を2ヶ月歩いて行して、完全に心が清浄化したから、初めて人間の吐く想念の汚さを感じたんだろう」
「人間のたくらみ、欲望、策略、煩悩。私も1年3ヶ月家にこもって行したとき、汚されるなぁ嫌ややなぁ、これだけきれいになったもの、人の世に出て汚されるのか」と思ったからよく解かる。

しかしその時には神さんが私にカプセルをかぶしてくれはった。カプセルに包まれているから、ひとつも身近になってなかった。ガラス一枚隔てたところから、この世の中を見せてもらってました。

その時、私の”霊示”にも書いたように、空海の言われた言葉がよくわかる。

”三界の狂人は狂せることを知らず、四生の盲者は盲なることを識らず、生まれ生まれ生まれて生の初めに暗く、死に死に死に死んで、死の終わりに冥し”

もう煩悩いっぱいに生きている人間。その心を私が反省して、初めて世の中に出してもらった時に、世の中の人、自灯明すらない。とても法灯明どころでないことがわかった。。
自信に満ちて心に灯をとぼして生きてる人一人もない。皆、心は灰色でした。
だから盲者というのです。一寸先が見えない。こんな人たちに自灯明、法灯明をとぼしてもらったら、どんなに素晴らしいだろうか、とボクは思いました。

しかし、誰も同じ道を踏んで来てくれた者はいない。
今、佐々木君がどうにかボクの後をわり方まっすぐに来てくれている。
何でや?欲がないからです。
持ってるお金、切り崩しながら正法をやっておられるからです。
これは真の道やと思います。そして霊能者になろうとも思ってない、指導者になろうとも思ってない。ただ、ひたすら真理が知りたいということでやって来ておられます。


今回の反省会ですが、どの人もどの人も厳しい人生を生きておられます。
自分だけが厳しいと思っておられます。しかし、どの人も厳しい。
やはり魂の修行のための、厳しいものがあります。
親に捨てられ貰われていった子。子供に悩み悩み苦しんでいる親。色々の人がいます。どの人見ても幸せいっぱいやな、と思えない。そういう点で魂の修行は一緒です。何かひとつの課題を皆さんいただいています。

じーと私が見た時、男の人ってやっぱり知と理やな。女の人は心と感情やな。女の人で知と理の人はやはり不幸になっておられるな、ということがよくわかりました。しかし知と理でもいいから、ずーと追い込んでいく。
どこで自分のものになっていくのかな、と見ましたら、心が込み上げてきて心が熱くなってきて涙がでます。その時にどうやら、頭で思っていた知恵が、心に落ち着くみたいです。
たとえば人のことを聞いても「そうやなぁ」と思ったときには、心から何かが込み上げてきて涙がばぁーと出てくる。そういう時に心に入り込んでいるということです。

正法というのは知識を広げるんじゃない。みんな間違えておられる。心を掘り下げるものやということです。それを心を掘り下げるのじゃなしに、知識や霊能力を具えることやと思っておられる。そんなことは関係ないのです。
自分の心を、自分の仏心まで、掘り下げ、掘り下げ、掘り下げていくものだと思います。
反省会で、母親に反省しなさいや、母親に反省しなさい。といいます。ところがそれも2~3回したらこれで済んだ、卒業や。自分で自分に卒業証書を渡しておられる。それでもう終わりにしておられる。

正法はテクニックでも技術でもないのです。心です。
ある方が、人生を振り返って、ひとつひとつ反省をやってみたら、人生なんて自分が起こした波風で、自分自身が苦しんでいる。というところに到達やっていきます。
要約していったら、そこまで反省って行ってしまいます。

高橋信次先生が、心の原点と言われました。反省を掘り下げて、掘り下げていかないと、心の原点には突き当たりません。反省をして色々の角度から堀りあてていかないことには、心の原点には突き当たりません。

”人生の起伏深高を超えて、心に妙を奏でる”
心に妙を奏でるなんて、ほど遠いことです。人間の奥底にも玄妙な妙があるのですね。この日常の中に妙があるのです。夫婦の語らいの中に素晴らしいものがあり、人との何気ない語らいの中に素晴らしいものがあるのです。
我々のリズムは荒いから、そんな日常のものは吹っ飛んでしまうのです。もっと波動の荒いものにしか感動しないのです。心が精妙になればなるほど精妙なものに感動していく。

だからそれをやればやるほど、何ぼしても何ぼしても私に追いつかないことをあなた方は知っていくのです。その時に初めて私の存在を知ってくれるでしょう。あなた方、やらないから私がわからないのです。
自分の人を見る肉の眼で、また、自分の知識の範囲内でしか、能力の範囲内でしか私を見てくれないからわからない。実際に10年やってみられて、本当にやってみてもなお且つ追いつけないなぁ、と解かった時に私の一言がすごいものである、とわかってくれるでしょう。

佐々木君が1年数ヶ月、求め求め四苦八苦していくもの。「何や先生、一番最初に私と出会った時に言うてはりましたね。精進して今わかったこと、もう最初に言うてはりました。それを自分たちは軽くつかまえていたから、わからなかった」

丁度、孫悟空が観音さんの手の内で、「ここから宇宙の果てまで行ってきますわ」と言うて、手の内からひとつもよう出やなんだように、自分が精進して、精進して、精進したつもりで自分が掴んだものが、ボクが一番最初にその人に言うていたものやった。

そこまで来ないと、私の奥におられる神の偉大さが解からないのです。「また同じ話や!」というて精進されてない人にはわからないのです。

そして心の宿便をとるのが反省です。この宿便によって自分が人生の中で、のた打ち回って苦しんでいるのです。
己の心のガンの作用によってです。だから盲者なんです。

祈りすら、本当のことを知らない。

   祈り

祈りとは、神の次元に近づくと書く
 それは形の段階ではなく 心の段階なり
心の段階とは 自身を超えた愛の領域なり
 ならば あなたの祈りは自身のためか人のためか
自身のために祈るなら空しきことと知りなさい

人のために祈るなら その願いは力を持ち
 人の幸せを願って祈るなら
心の領域に応じて報われよう

愛をかけて祈るなら
 愛の段階に応じて報われよう
愛ゆえに自分の何かを絶って祈るなら
 あなたの祈りは強い力となって働き
愛ゆえに自分の命をかけて祈るなら
 あなたの祈りは奇跡の力と化すだろう

また人が 人事の限りを尽くしてなお報われず
 運命の絶対絶命の窮地にたって
最後の希望を唯一の祈りに託すとき
 人よ あなたの祈りは報われ応えられよう

                 瀬川 宗一


だからイエスが祈り合え、と言いましたでしょう。
自分のために祈れなんて、ひとつも云うていないのに、今の宗教は自分のため事に祈っている。そうではなく人のために祈りなさい。それによって人さまから祈られる己を作れ。とボクはハッキリ言うています。

そして真心をもって祈るなら、心の段階に応じて報われよう。愛をもって祈るなら、愛の領域に応じて報われよう。
ここに神と人間の大きなひとつのものがあります。これが祈りの神髄です。

 

 

 

 我聞25「正法という真理」                            26  「青龍の守護神 」へ進む

topページへ目次我聞より愛のひびき
 
Copyright (c) 2011 gamon. All Rights Reserved